小一時間富山
金沢小旅行
曽野綾子氏の産経新聞コラム
を読んだ。
以下のように読み取れた。
・多民族の文化や心情を理解するのはむずかしい
・今後は日本も労働移民を受け入れざるを得ない状況になるだろう
・受け入れにあたり、不法滞在などの状況をつくらないようにしないといけない
さて、移民を受け入れた時に、わたしは彼らの文化や心情を理解することができるだろうか、いや、それは非常に難しいことだ。かつてこんな話を聞いたことがあるから。
ーーーーーーーーーーーー
問題の部分
ーーーーーーーーーーーー
だから、[問題の部分]のような状況を避けるには、異なる文化や生活様式を持つ人たちとは住居を別にした方がよい。つまり移民とはね。
荻上チキによる曽野綾子氏へのインタビュー書き起こし - さかなの目
異なる文化を理解し、一緒に生活することは難しいものだ。だからトラブルを起こさないためにも別々に暮らす方がベターだし(しかしあくまでも自発的に集まって)、例えばリトルトーキョーのようなコミュニティっていいじゃない、と。
この文脈だと、移民に対してそのような暮らし方、つまり同じ文化圏の者同士は同じ場所で暮らすべきだと暗に強いているようにしか聞こえない。「わたしだったらそうするわよ」と。お互いの文化について理解に努めようという方向性は感じられず、あくまでも距離を置きたいと。
この感じ、デヴィ夫人の「私が 彼の母親だったら そう 言います。」と同じ臭いがしなくもない。
問題の箇所も、介護業界の例にしても、とにかく驚きの内容で溢れているが、言いたいことは既に多くの方が指摘している。
インタビューの中で繰り返し述べられる
差別ではなく区別
というフレーズであるが、これは「プレッシー対ファーガソン裁判」を想起させる。
Separate but equal(分離すれど平等)
人種差別ではない。ただ区別しているのだ。
アパルトヘイトだけでなく、アメリカでの奴隷解放や公民権運動を連想した人も多いのではないだろうか。アメリカの歴史と中学生のジョーク以外ではなかなかお耳にかかれない言葉である。
ああわたしたちは100年も昔から何も変わっていないのか。歴史から何を学んでいるのか。
テクノロジーは国境を越えあらゆる世界を近づけてくれるが人間はテクノロジーのようにはなれないのか。
結局、曽野氏が他の文化圏の人とは一緒に暮らしたくない、と思っていることだけはわかった。
サイキック青年団とPodcast
ネットラジオを聞いている。
不定期に配信されるものは除きPoscastで購読しているものの中から3つほど、通勤途中や寝る前に聞く。だいたい1時間程度の内容である。
たまに新しい番組を探してみたりもする。
iTunesやネット上で無作為に試し聞きしていろいろつまみ食いしてみるものの、購読候補になるのはいつも、30〜40代男性2・3人による時事ネタや社会問題、映画・漫画などのカルチャー系のテーマを扱ったものである。
そして、これらの番組で関西圏出身のスピーカーが出ている場合は、なぜかかなりの確率で『サイキック青年団』の話題が出る。
残念ながらわたしはリアルタイムで聞いていた世代ではなく、『サイキック青年団』の存在を知ったのはこうしてネットラジオを聴くようになってからなのだけれど、中年世代となったかつてのラジオ小僧からの愛され度と影響力はかなりのものと想像する。
Youtubeで探してみたところ、地下鉄サリン事件が起きた1995年の貴重な放送が見つかったのでメモしておく。この年は阪神・淡路大震災があり、初めて体験した震度4と駅構内で倒れこむ人々がテレビに映し出される様子の断片的な記憶はある。